第50回(2023年度)国際交流基金賞
 ~越境する文化~<1>
第50回(2023年度)国際交流基金賞 授賞式レポート

2024.3.15
【特集080】

特集「第50回(2023年度)国際交流基金賞 ~越境する文化~」(特集概要はこちら)

国際交流基金設立の翌年である1973(昭和48)年に始まった国際交流基金賞は、2023年度で50回目となりました。毎年、学術や芸術等の文化活動を通じて、国際相互理解や国際友好親善にすぐれた功績を挙げ、引き続き活躍が期待される方々に贈られています。
これまでの受賞者は、バーナード・H・リーチ(陶芸家、1974年)、黒澤明(映画監督、1982年)、ドナルド・キーン(コロンビア大学教授/日本文学、1983年)、小澤征爾(指揮者、ボストン交響楽団音楽監督、1988年) 、宮崎駿(アニメーション映画監督、2005年)、村上春樹(作家/翻訳家、2012年)、蔡國強(現代美術家、2016年)等(敬称略、肩書は受賞当時)──とそうそうたる方々が名を連ねています。

国際交流基金賞50周年という記念すべき今回の受賞者は、宮城 聰(演出家/SPAC-静岡県舞台芸術センター芸術総監督・静岡県コンベンションアーツセンター館長) [日本]、小川 洋子(小説家)[日本]、ペルー日系人協会 [ペルー]の2氏1団体です。10月18日に受賞者も登壇して東京都内で行われた授賞式とレセプションの模様を報告します。


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国際交流基金賞は、国際交流基金の事業の中でも最も歴史のあるものの一つであり、第49回までの受賞者・団体は世界34か国、204に上ります。
2023年も国際交流基金が活動の柱としている「文化芸術交流」「日本語教育」「日本研究・国際対話」の3つのテーマに沿って、内外各界の有識者及び一般公募により推薦のあった78件から、有識者21名による選考委員会での議論を経て受賞者が決定しました。

10月18日、東京都内で開かれた授賞式には、受賞者・団体代表者のほか、国際交流基金賞の50周年を記念して、上川陽子外務大臣にご臨席いただき、また、選考委員、関係者等約200人が集まりました。
授賞式に引き続いて、国際交流基金賞50周年記念レセプションを開催し、秋篠宮皇嗣同妃両殿下にご臨席いただき、受賞者とご懇談頂きました。

授賞式では、上川陽子外務大臣からご祝辞を頂きました。

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上川外務大臣は、本年度の国際交流基金賞の受賞者の方々に祝意を述べられるとともに、コロナ禍においても熱意をもって活動を継続された、そのご貢献に敬意と感謝を表されました。
また、2022年は国際交流基金の設立50周年、2023年が国際交流基金賞の50周年という節目であることにも触れられ、これまで受賞者の方々が取り組んでこられた、相互理解・相互交流の努力に対し、国際交流基金が今後も後押ししていくことへの期待が述べられました。
さらに大臣は、世界中の方々とお会いする中で日本文化への高い関心に接するとともに、相手国をより良く理解する上で、その活字文化に触れることの重要性を体感したことに言及され、外務省としても引き続き国際交流基金と手を携え、日本の文化芸術や日本語の魅力を世界各国にしっかりと発信しつつ、強力な外交を押し進めていく旨を述べられました。

続いて、受賞者の方々と、その授賞理由についてご紹介があり、その後賞状の授与が行われました。

宮城聰氏は、身体と言葉と音楽が一体となった独自の手法で、世界的に評価の高い舞台芸術の演出家で、これまで、フランスのアヴィニョン演劇祭でのギリシャ悲劇『アンティゴネ』や、パリのジャポニスム2018での『マハーバーラタ ~ナラ王の冒険~』上演を始め、数多くの海外公演を成功させてきました。また、ご自身が芸術総監督を務めるSPAC-静岡県舞台芸術センターでは世界各地から作品を招聘するなど、舞台芸術を通じた国際相互理解の促進に大きく貢献しています。


kikinsho_04_resize.jpg 国際交流基金の梅本和義理事長(左)と、宮城 聰氏(右)

小川洋子氏は、『博士の愛した数式』や『密やかな結晶』など、数多くの長編・短編を生み出し続けている小説家です。端正な日本語で書かれた作品は、36作品が合わせて37の言語に翻訳され、世界各地で言語や国境の壁を越えて読者の共感を呼んでいます。近年は国際的な文学賞へのノミネートも相次いでおり、日本語作家のみならず、日本語教育に携わる人々を牽引し、激励する存在として、文学や日本語を通じた国際相互理解の推進に大きく貢献してきました。


kikinsho_05_resize.jpg 小川 洋子氏(右)

ペルーのペルー日系人協会は、1917年の創設以来、10万人を超えるペルー日系人コミュニティを支え、日本文化の普及に努めてきました。同協会は戦後、日秘文化会館を中心に日本語教育を促進し、今では南米における日本語教育のハブ的存在となり、また、同協会は日本の古典文学の翻訳出版など、日本研究、国際対話の分野でも中心的存在となっています。
日ペルー150周年を迎えた記念の年に、多分野で貢献するペルー日系人協会に国際交流基金賞を授与することはきわめて時宜にかなっています。


kikinsho_06_resize.jpg ペルー日系人協会のフアン・カルロス・ナカソネ・オオシロ会長(右)

賞状の授与に続き、受賞者によるスピーチが行われました。

宮城氏のスピーチは次のとおりでした。
「高いところから失礼します。僕はこれまで何度か、尊敬する演劇界の先輩がこういった素晴らしい賞を受賞された際のセレモニーに出させていただいたことがあるのですが、そのような折に、受賞された方がほぼ異口同音におっしゃる言葉がありました。それはどういう言葉かといいますと「まだまだ頑張れと背中を押された気分です」というフレーズです。
以前、私は、どうして皆さんこのフレーズをおっしゃるのだろうかと。もしかしたら、紋切り型辞典などという書物に、スピーチという項目を引くと、これが載っているのではないかなどという不謹慎なことも考えたことがあったのですけれども、最近になって、やっとこの言葉の後ろにあるものに気付くようになりました。それは、ひと言で言うと、孤独ということです。
こういった賞を頂くということは、やはりそれなりに長いキャリアが必要だということだと思います。そのキャリアの真っただ中においては、いわゆる自転車操業で、いつも演劇ですと目の前の初日に向けてペダルをこいでいるわけです。でも、ふと周りを見ると、若い頃にライバルだと思って張り合いにしていた友人が、いつの間にか1人減り、2人減り、誰々に負けないようにと自らを奮い立たせることが、もう難しくなっているということに気が付きます。
では、演劇という、演じたそばから消えていく芸術において、何をよすがに前に進もうという気持ちになることができるのでしょうか。実は、演劇人の後半生、後の半生はこの張り合いのようなもの、よすがのようなもの、それを見つけ続けていく戦いなのだということが、僕にもやっと分かってきました。まだまだ頑張れと背中を押された気分です。なんて重い言葉でしょうか。今回、国際交流基金賞を頂けたことに、本当に感謝しています。
あともう一つ、感謝を付け加えさせてください。舞台芸術家としては、カナダのロベール・ルパージュさんが昨年度受賞されていらっしゃいますけれども、日本の演出家がこの国際交流基金賞を受けるのは初めてのようです。僕としては、演出家といういわば地道な仕事が、大げさなことを言うようですけれども、国際的な緊張緩和や平和構築といったものに、いくばくかでも関係すると認めていただけたことが、本当に嬉しく感じています。
人間はこれまでも巨大な愚かな行為、愚行を繰り返してきました。その悲劇の直後には、多くの人たちがいわゆる痛恨の思いを抱えて、この愚行を繰り返すまいと決意されると思います。しかし、その決意された方々が時間とともに表舞台を去る。その頃になると、またも人間は、この難局を突破するにはこちらの方法しかないぞと破局につながるような選択をしてしまう。これが人間の歴史だったようにも思います。
このように破局につながるような選択をする、その時その選択の背後には、まず必ず、私たちは追い詰められたと感じている人が、そういう人間の精神状態があって。そして、しばしばその恐怖感と表裏をなす熱狂があったと思います。
演劇というのは、そうした難局に対して解決策を示すことはできないです。しかし、演劇は過去の人間たちが危機に直面して、いかに苦悩し、どのような言葉を発したか、それを現代の俳優の肉体を通して見せてくれる、そういうものです。
その人間のじたばたを目にする観客は、意外に自分たちと似たところがある登場人物、人間たちを客席から見ることによって、熱狂とは正反対の一種の落ち着き、冷静さといったものを取り戻すことができる。それが演劇の効能かなと思っています。
演出家という仕事は、案外歴史の浅い職業で、特に20世紀の半ば以降に急激に、自分で言うのもあれですが、存在感を増した仕事です。つまり、20世紀の半ば以降に存在感を増したということは、ひと言で言えば、もう一度世界戦争を起こしたら人類は終わりだという危機感が人々の間にあって、そのことによって演出という仕事にスポットが当たったと思います。つまり、演出家というのは、過去の人間の苦悩の軌跡としての古典戯曲を、今現在の文脈の中で提示するというミッションを背負ったわけです。
人間がたとえ大きな危機に直面しても、こういうことは前もあったのだと感じることで、なにがしかの冷静さを取り戻して、破局を避けられるのではないかという一縷の望みを担ったのだと思います。
残念ながら、今演出家の仕事は、かつてのようにスポットを浴びていません。むしろ、次第にその影が薄くなっているというのが現状だと僕は思います。その背後にあるのは、もう一度世界戦争を起こしたら人類は終わりだという思いを持つ人が減ってきたのかもしれません。しかし、だからこそ、今人々が破局のほうを選択しないための一縷の望みを演出家が自ら引き受けるべきだと僕は思います。
だから、この受賞は、今の今演出家という仕事が必要だという声を頂いたようにも感じられます。若い演出家たちに、僕は今「そうだよ、君の仕事は必要だよ」と言いたい気持ちです。偉そうなことを言いましたが、どうもありがとうございました。」


kikinsho_07.jpg 現代における演出家の仕事の意義について語る宮城 聰氏

次に小川氏から、次のスピーチがありました。
「皆様、こんばんは。作家の小川洋子です。このたびは国際交流基金賞という大変名誉ある賞を頂戴し、身の引き締まる思いです。私の仕事にお心を留めて下さった選考委員の皆様、この賞のためにご尽力下さったすべての方々に、心より感謝申し上げます。
私の小説、『ダイビング・プール』が『La piscine』としてフランス語に翻訳され、初めて外国の出版社Actes Sudから出版されたのは、1995年でした。以来、今日まで、私の小説を海外へと送り届けて下さっている日本著作権輸出センターの皆様、ありがとうございます。日本の文学を海の向こうへ、という皆様の情熱がなければ、今、私はここに立っておりません。初代社長の栗田明子さん、現社長の吉田ゆりかさんは、私の作品にとって何がベストか考え、裏方に徹して支え続けて下さっています。いくら感謝してもしきれません。
また、最初の翻訳者になってくれたローズ・マリー・マキノ・ファイヨールさん。あなたが、栗田さんから送られてきた段ボール一杯の日本語の本を前にし、装丁が最も地味だから、という理由で最初に読んでくれたのが、私の本でした。もはや、文学の神様が出会わせてくれた、としか思えません。
そして、本日、わざわざアメリカから来日して下さっている、スティーブン・スナイダー先生。英語圏の人々に日本語の本を読んでもらうのは想像以上に困難なことでしたが、先生の翻訳のおかげで、一気に道が拓けました。翻訳というのは、その小説を一度全部ばらばらにほどいて、もう一度編み直すような、気の遠くなる仕事ではないかと思います。先生は、その編み直しの途中、書いた作家でさえ気づいていない、作品を照らす、小さな星をすくいあげて下さっています。本当にありがとうございます。
1988年にデビューして以来、さまざまな登場人物たちを描いてゆくなかで、どんなに醜い悪意を隠し持っていようと、社会から疎外されていようと、与えられた運命の重さと、自分の弱さに耐えながら、誰もがどうにか生きている。放っておいたら消え去ってしまう、その足跡を言葉で残しておくのが作家の役目ではないか、と思うようになりました。狭い価値観で他者を切り捨てるのではなく、まず受け入れるところからはじめなくては、小説は書けません。
海外の読者と出会う中、この寛容さは、国境を越えて遠くまで響いてゆく、と実感しています。今まで、自分の小説の読まれ方に、国の違いによる違和感を覚えたことは一度もありません。
ある日、パリを旅行中に小さな本屋さんへ入り、物は試しだと思い、ヨウコ・オガワの小説はありますか?と尋ねました。するとその老婆は一瞬の迷いもなく、さっと、本棚の一点を指さしました。確かにそこに、私の本がありました。自分の書いた小説が、自分の読めない言葉になって、遠い場所まで旅をしている。作家として無上の喜びを感じた瞬間でした。
今日は、未熟な私を、長年にわたって導いて下さった編集者の皆様にも、ご出席いただいております。自分の力のなさに絶望しつつも、どうにかここまで書き続けてこられたのは、編集者の皆様の助けがあってこそです。改めて感謝の念を捧げたいと思います。
本日はどうもありがとうございました。」


kikinsho_08_resize.jpg 作品の翻訳、海外での出版に関わった方々への感謝を述べる小川 洋子氏

ペルー日系人協会を代表して、フアン・カルロス・ナカソネ・オオシロ会長から、次のスピーチがありました。
「みなさん、こんばんは。
ペルー日系人協会を代表して、国際交流基金にご挨拶申し上げるとともに、「2023年度国際交流基金賞」という重要な賞を賜りましたことに、心から感謝申し上げます。また、今宵この名誉を分かち合う、静岡県舞台芸術センター芸術総監督の宮城聰氏、小説家の小川洋子氏にも心からお祝い申し上げます。
国際交流基金には、50年以上にわたり日本文化を世界に広める重要な役割を担っていただいていること、そしてこのたびペルーのリマに事務所が開設され、私たちがより連携して活動し、両機関の協力関係を強化することができるようになったことに対して、特別な謝意を表したいと思います。
当協会が78候補者の中から選ばれてこの特別な賞を受賞できたと知ったときは、嬉しい驚きでした。私たちはこの大きな喜びを理事や協力者たちと分かち合い、その中の何人かは今日この式典にも参加しています。彼らなしでは、組織として成長し、コミュニティに利益をもたらすために活動することは不可能でした。
2023年は、1873年に日本国秘魯国和親貿易航海仮条約が締結され、ペルーと日本が外交関係を樹立してから150周年に当たり、この賞はその意味でも大変重要です。この条約は後に、日本人のペルー移住のきっかけとなりました。佐倉丸がペルー沿岸に向けて横浜港を出航してから124年になります。
パイオニアである移民たちの遺産は世代から世代へと受け継がれています。1917年、移民たちは中央日本人会(現在のペルー日系人協会)を設立し、ペルーに住むすべての日系移民とその子孫を束ね、その代表となりました。
当協会は様々な文化活動を積極的に行っており、日本の武道や囲碁・将棋などのボードゲームを普及させ、日本文化を広めています。また、リマには日本語センターがあり、南米日本語教育スペイン語圏諸国会議を通じて、私たちの影響は南米全体に及んでいます。さらに、日本料理から生け花まで、さまざまな講座を通して教育にも貢献しています。私たちには出版基金もあり、伝統的な日本文学や日系文学を印刷したり、ペルーに渡った日系移民の歴史を「平岡カルロス千代照」史料館に保存したりしています。
社会貢献活動の一環として、私たちは地域住民、特に高齢者にはレクリエーションや支援プログラムを通じて、青少年には教育単位を付与することで、その幸福と発展を保証しています。1981年に設立された日秘総合診療所と2005年に設立された移住100周年記念病院を通じては、地域社会に健康をもたらしています。
長年にわたり、両国の協力関係は絶えることがなく、ペルーにおいて日本の機関から受けている支援は日々強化されています。今日、私たちがお招きいただいたこの式典は、その端的な例です。
ペルー社会のために、そして両国の友好関係を強化するために、私たちはこれからも活動を続けていくことを再確認したいと思います。最後になりましたが、このような名誉ある賞を授与してくださいました国際交流基金に、改めて感謝の意を表したいと思います。
誠にありがとうございました。」


kikinsho_09_resize.jpg 本受賞の意義について語るフアン・カルロス・ナカソネ・オオシロ氏

授賞式後に引き続き開催された国際交流基金賞50周年記念レセプションでは、秋篠宮皇嗣同妃両殿下のご臨席を賜り、受賞者のみなさまとのご懇談が行われました。
その後、受賞者の方々は、これまでのご功績を称える多くの人々に囲まれ、ご歓談されました。


2024年2月7日
文:西納由美子(国際交流基金広報部)

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